風景と速度

@takusan_neyoの日記

生き方について

たびかさなる飲酒により体調が悪い。せっかくの有給の月曜日なのにだらだら眠ってしまった。

ポエミーなことを書こうとして書いて消して繰り返して、結局わたしにはそういうことを書くのは向いてないなって気づく。叙情的なふんいきというのは常にわたしのなかに漂っていて、波の水位のように上下してるんだけども、その水位が上がりきったときじゃないとポエミーなことは書けない。(そもそもポエミーなことってなんやねんという話ではあるが……)

依頼されている原稿の〆切を一週間すぎてしまった。まだ書き終わる気配が見えない。今日は早起きしてやるぞ! って気持ちだったのだけれど、結局二日酔いしている。二日酔いというか、寝る前に食べた炒飯が悪いのではないかという気もしている。お腹がいたい。

いったい自分はなにに執着して生き延びているんだろうな、とたまに思う。二日酔いだから虚無的な気持ちになっているだけかもしれないけど。希死念慮というのは2010年代以降のキイワードにちがいないのだろうけど、わたしの場合は死にたいというより、なんで生きてるのかなあ、という形で発露してくる。そのたびに、あれしたい、これしたい、こうありたい、みたいなことを一つずつ整理してみたりする。漫画の新作とか、すきなバンドの新譜とか、つぎにあなたと飲みにいく予定とか、そういう単純なものに実は執着して、支えられて、生きているのかもしれないな。

だいなしになっていくこの世と、それでも生きていくわたし、というのがずっとテーマとしてある、というツイートを先日した。失われていく青春の輝きというのがわかりやすく好きなのだけれど、それをわたしの気持ちに沿って一般化したときに出てくる言葉が、「だいなし」になるのだろう。スポイルされてしまったもの、たとえば大雨ではやく散ってしまった桜とか、こぼしちゃったお酒とか、そういうレベルでいいんだけど、世界の全体値みたいなものが少し損なわれるような事象に対して、それをしっかりとまなざして受け止める(できれば愛をもって)、というのが「それでも生きていく」っていう部分だと考えている。6年過ごした京都・北白川を離れるときには、いろいろなものが決壊して毎日泣きそうになりながら白川通を歩いていたし、事実ちょっと泣いた。たぶん終わってしまうモラトリアムというのが、わたしに直結しすぎてて、「それでも生きていく」って思った時に共振しすぎたんだろう。エモすぎるのも困り物だなあ。

さいきんは小説を書いているんだけど、小説を書くというのはほとんど思考と記憶の練習みたいな感じがする。もうちょっとテクニックを身に付けたい。