風景と速度

@takusan_neyoの日記

12月

そのひとはずるいひとだったけれど、いま思えばそれを口実にして私自身こそがずるいひとになっていたのだとおもう。

ゆっくりと、だが着実に老いてゆく。恐ろしいことのようでもあり、喜ばしいことのようでもある。時間軸のもたらす暴力性と、それに乗っかる堕落的快楽は排反しない。

いつかわたしは周囲の人間をすべて失い、虚空に向けて言葉を放擲するしかなくなるのではないか、という予感が、歳をとるごとに、少しずつ確信めいてくる。その時の自分のこころのうちを想像してみるが、濁流でも清流でもない、冷え冷えとした雪原でもない、ただただ風の凪いだ湖の景色が浮かんでくる。湖面は微動だに揺れることなく月の光を反射している。完璧で美しく、恐ろしい景。

曇天の冬空の下に、公営住宅の補強工事の空間がある。空も建物もグレーに薄曇っていて、ぼくはそれを美しいと思う。

砕けた言葉の断片を詩と呼びうるならば、砕けた生活の断片や砕けた思考の断片も詩たりうる。けれどもこの肉体自身はいかようにしても詩にはならない。質量と体積の逃れようのなさ。ことばに顕れる身体性というのは肉体そのものではなく、フィルタリングによって質量や体積を削ぎ落としたヴァーチャルなものでしかない。

2021年が終わるとこの世のたくさんの2021年のカレンダーが捨てられる。当たり前の事実が、すこしこわくて寂しい。