風景と速度

@takusan_neyoの日記

8月

頭の中でずっと積み木が積まれてゆくような感覚があって、でもテトリスぷよぷよじゃないから消すこともできなくてぐるぐると気持ち悪くなってくる。なんなのだろうと思ってたんだけど、この感覚を夏バテと呼ぶのであれば、わたしはずいぶん昔から夏バテを知っていたはずなのにそれを夏バテだと認識していなかったのかもしれない。

一言で言えば頭の中にもやがかかった感じなのだけれど、少しずつそのもやが増幅していくので、パソコンを見ていられなくなり、うーっと声を出してみたり歩き回ってみたり、冷たい(あるいはあえて熱い)コーヒーを飲んでみたりしてやり過ごしている。

夏だというのに、なぜ工事をしたりするのだろう。職場の最寄りにあった、住宅街に突如としてあらわれるカラオケチェーンがあとかたもない更地となり、熱気でぐらぐらする空気の中にバックホーがお座りしている姿を見ると、体感的な気温が2度ぐらいあがっている気がする。やはり日が長い時期に工事を行った方が1日あたりにできる作業量が増えるということなのだろうか。季節に労働時間をコントロールされるのは多かれ少なかれあるけど嫌なことだなあとおもう。

電車で京都へ向かう。今年初のビアガーデン。

美容師の人と、会社員と、アーティストと、飲み屋の店長、雑貨屋の店員と飲んだ。会話はアクロバティックで、フリースタイルで、話に笑ったり頷いたりしながら、自分の面白くなさをしみじみと味わっていた。それもきみのいいとこやで、来てくれてありがとう、と言われながら人の少ない阪急京都線に乗り込み帰路につく。しょうもない話をつらねていくことで、いまこころのなかに抱えている不安や、つらさや、絶望の気持ちに、それは消え去ることはないけれど、せめて、そのしょうもなさによって、何かを救うことができるのではないか……と思っている。

美しい夢も、苦しい夢も、えっちな夢も、本質的には悪夢である。夢はわたしを救ってはくれない。というか、飲酒やセックスなどの快楽すらもわたしを救いはしないし、結局のところ、自分の感情に対していちばんなんとかできるのは自分の感情自身であり、自分の言葉でしかないのではないか?と近頃は考えている。

近頃は考えている、というのは嘘で、ブログの文章はほぼ全て即興で思いついたことを書いている。書いているいま、思いついたときのわたしを書いているわたしは追い越し、べつの考えが浮かんできたらそちらにもう気はうつって、なにをそのとき思いついていたのかは書いた文章にしか残らない。でもそれでいいし、それが生きるということだと思うし、わたしは結局書き続けることでしか、自分の生きていく/生きてきた痕跡を見つめられないのだとおもう。それでも、このようにして刹那的に生きることは、不幸なことではないはずだと信じている。