風景と速度

@takusan_neyoの日記

3月

目が回るほど疲れて、ビールでお弁当をぐいっと流し込んでねむる、というような暮らしを二週間ほどつづけて、すこし参った。わたしは疲れると、自分でその疲れを背負いこむというか、より疲れる方へ疲れる方へと頑張ってしまう。具体的に言えば残業ハイみたいな状態になって、「明日も5時間残業してやらあ」みたいなテンションになってしまうのだ。

最近はアニメをぼんやり観てみたり、ラジオやPodcastを聴いてみたりしながら過ごしている。昨年の自分と比べて、すこし文化的なものを受信するアンテナがましになった。昨年はずっと故障しっぱなしというか、頭にもやがかかりっぱなしのような状態だった。何を見てもおもしろくないと感じたり、なにを聴いてもこころが動かなかったり、本も全然読めなかったり。いまは少しずつ回復して楽しくなってきている。のだけれど、仕事も同じように忙しくなってきているので身動きできない。やっとわたしの精神に雪解けの春がきたというのに!

少し前にTwitchというゲーム配信に特化したアプリ(RTAの配信などによく使われているらしい)で、Dos MonosのひととMONO NO AWAREのひとが人生ゲームをやる配信をやっていて、同居人の勧めでそれをいっしょに見ていたのだけれど、「花束みたいな恋をした」のことを「花束みてぇな恋をした」と言っているくだりで、ふたりでゲラゲラ笑った。べらんめえ口調になるだけでどうして可笑しくなってしまうんだろう。それからというもの「花束みてぇな恋をよォ〜」みたいな、ジョジョ的なノリでわたしたちの会話の中でこのフレーズが使われるようになった。そういえばこないだ同居人が「あれ映画化するらしいよ、あの……『明け方みてぇな若者たち』。」と言ってきたのでこれもゲラゲラ笑った。確かにカツセマサヒコの『明け方の若者たち』と「花束みたいな恋をした」は現実のカルチャーから固有名詞が引用されているとか、想定している客層が近いとかの共通点があってダブるところがある。これを読んでいるひとたちは、そんなにゲラゲラ笑えるほど面白いことか? と思うと思うのだけれど、今のわたしの生活にとっては、むしろこれぐらいチープでシンプルで、だけれども個別性を持って自分の記憶の中に宿るエピソードこそが愛おしいのだ。

最近はSNSやブログから離れていた、といっても、このブログと紐づいているTwitterアカウントについての話だけれど。べつになにか心情の変化があったとかは、自分では認識していないんだけれど、無意識のうちになにかが変わったのかもしれない。単純に忙しかっただけとも考えられるけれど。最近Twitterを見ていると、わたしの人生とは関わりのないひとたちが淡くそこに存在するだけ、というような気持ちになってきて、それはもちろん、会って話したりできない、ということに起因しているのだとおもう。わたしは会ってあなたと話したかったのか。そんな理由だけでTwitterをやっているわけではないのだけれど、でもそういう気持ちがあるのはある。ひとと話すことが好きだ。わたしは、ひとと関わることによって傷ついたり落ち込んだりしながらも、ひとが喋るときのその仕草とか声のトーン、喋り方、そこにあなたが存在することのテクニック、みたいなものを感じているときに、その人が生きていること、翻っては自分が生きているということを実感する。

会えなくなったひとがたくさんいる。会えるひとより会えなくなったひとのほうが多いんじゃないか。一方で、とても久しぶりに会ったひとというのも最近いる。そのひととはほぼ10年振りだった。ひととひととの繋がりがグラフで書かれているなら、切れたり繋がったりが今この瞬間も絶え間なく行われていて、この複雑系を構成している。そういうシステムを認識することで、逆にひとつひとつの行動の個別性、一回性が(わたしにとっては)際立つ。会えなくなったひとと、もう一度会える可能性はどれぐらいだろうか。

心待ちにしていることがあると、もうすこし生き延びようと思える。ずっと、その連続で生きていたような気がする。アニメとかラジオとかを毎週チェックするようになると、つらさが少し和らぐ気がするのは、来週まで生き延びよう、の連続に心がフィットしてくるからなのかもしれない。