風景と速度

@takusan_neyoの日記

9月3週

水曜日

なんにもやりたくないとおもう。

今日は小山田壮平を聴きながら出勤した。「ゆうちゃん」は最初聴いた時そんなにかなと思ってたけど、聴いていると彼の優しさがしっかりと歌に乗っていていい曲だなと思えてきた。

andymori初期の小山田壮平はもうすっかりいなくなってしまって、彼は愛や優しさのことを優しく歌うようになった。ALというバンドを聴いてても、彼のソロを聴いててもそれは確かなことだと思う。

小山田壮平のソロでは「インタビュー」という曲がいっとう好きなのだけれど、「難しいこと並べないとね きみのインタビューは終わらない ただの愛に価値はない そして僕は路頭に迷う」というフレーズに、小山田壮平の愛や可愛さと、そこに共存する不安定さが詰まっているとおもう。

 

木曜日

小山田壮平のライブを見に行った。バンドセットで彼のソロのライブを見るのははじめてだったんだけれど、これがとてつもなく素晴らしかった。andymoriが好きだった(=今のALの体制にしっくり来ていない)人は絶対に見に行くべきだと思う。ベースが藤原寛なのもあいまって、サウンドもコーラスワークもandymoriのそれの感触が強くあったし、小山田ソロの曲もandymoriの頃の曲もやってくれてまさに至福の時間だったと言わざるをえない。小山田壮平が「ゆらゆら帝国のカバーをやります」と言ったときに会場の一部から悲鳴にも近い歓声があがってそりゃどっちも好きなひとにはたまらんだろうな…と思った。(わたしはそこまでゆら帝聴き込んでないのでブチ上がりはしなかったけど、知ってる曲だった)

本当に、小山田壮平は生きて歌ってくれているだけでいい存在だなと思う。彼がダイブして大怪我を負ったのは、彼の感情や心の動きの中で必然性があったことなのかはわからないけれど、その出来事を境目として、彼の歌い方や歌詞がやわらかくなってきたような気がする。単純に歳をとったというだけなのかもしれないけれど。

ソロでの曲も、弾き語りでは聴いたことがあった曲もバンドセットで聞くとさらに素晴らしくて、音源がますます恋しくなる。

余談だが会場には金属バットの二人が見にきていたらしい。金属バットが小山田壮平きくのはなんだか意外。二人ともいたってことはプライベートできたわけじゃなくて、招待されたのかなと思った。

 

金曜日

仕事が無理〜って感じだったので、定時後に梅田で飲む。串カツとハイボールの相性は良い。

犬みたいな人、と言われて、実家で飼っていた犬のことを思い出した。彼と過ごしていた時間が、わたしを犬みたいにしたのかもしれないな、と思った。犬は好きだし、犬みたいと言われるのも嫌いじゃない。それを言ってきたひともちょっと犬っぽい感じだったのが少し面白かった。

 

土曜日

音楽を聴いて、お酒を飲む。それだけで気持ちがいい。なんでこんなに酒ばっかりのんでるんだろう。ちょっと嫌になる。お酒は確実にドラッグでわたしの身体を蝕んでいるように思うのだけれど、僕は確実にお酒に救われている。音楽を聴いていても漫画を読んでいても救われない魂の淀みみたいなものがわたしの中に確実にあって、それを一つの方向へ流れを整えてくれるのが飲酒という行為なのかもしれない。何をいっているのか?わたしにもよくわかりません。

 

日曜日

ひたすら寝ていた。夜はいきつけの店の周年祭で、何を飲んでも500円だったのでウイスキーを色々飲んだ。めちゃくちゃ声のでかい男女がテーブル席で騒いでいてすこしいやだなと思った。わたしもわりかし声は大きい方なんだけど、声を大きくするべきではなさそうな場所や場面で大きい声が聞こえるとそのたびにビクッとしてしまう。単純に小心者というだけなのかもしれないけれど…。ウイスキーは美味しかった。キャスターを吸いながら歩いて家まで帰った。キャスターは、昔たばこをあんまり吸ってなかったときに、好きな先輩たちとフェスに行ってぼんやりと話しているときに、「で、きみはたばこを吸わないのかい?あげるよ」「やめなよー!わたしは彼にはたばこを吸って欲しくないんだよー!」みたいなやり取りがあって、二人とも吸っているのがキャスターだった。だから、キャスターを吸うとその記憶が鮮明に蘇ってきて、少し泣きそうになる。

 

月曜日

谷町六丁目にある大衆食堂「スタンドそのだ」はほんとうにご飯がおいしくて、行列のできる人気店なのもうなずける。昔からありましたみたいな店構えをしているけれど、実際はけっこう新しく、ネオ大衆居酒屋的な立ち位置をやっているのもよくわかる。ニューウェーブというのはこういう店から始まるのだろう。

最近、Tohjiというラッパーにハマっていて、彼の危うくも突き抜けた魅力はなんなんだろうと頭の中をぐるぐるしている。トラップミュージックは正直そんなに好きじゃなかったんだけれど、Tohjiの曲は魂を直で掴みにくるような魅力がある。まだあんまり曲をいろいろ聴けてはいないけど……。

フォロワーのツイートで、Aマッソが人種差別的な発言を行ったことを又聞きで知る。ネタを見ないとなんとも言えないけど、「尖ったネタ」をやる芸人に一番重要なのはどこで線引きされてて大衆が白けるのか、というのを見極める能力ではないかと思う。その線は大衆のリテラシーの発達によって動いていく(楽観的な見方をすると、どんどん「白けやすい」方へ動くふうに発達していってほしいけど……)。

特に、人種差別・性差別の要素が含まれる「笑い」はこれからどんどん難しくなるだろうけど、それは「お笑いがやりづらくなる」のではなく「笑いのレベルが洗練される」ことなのだと理解する必要があるんだろう。どこからアウトでどこまでセーフかの線は明確にあるわけではなく、個人の力量にもよるのだろう。そういうネタが笑えるのだとしたら、「ギリギリ」だから笑えるというのは間違いないと思う、だから余計に難しいのだけど。(たとえば、金属バットの「早口言葉」のネタを僕は面白いと思うけど、そうは思えず真顔になる人もいるだろう。)

美しい時間を書き留めておかないと覚えていられないし、考えたことも全部忘れてしまう。書いている間しか頭が働いていないような気すらする。文章を打っている間は心が落ち着く。こんなのほとんど酒に逃げるのとおんなじじゃないか、と思う。でも書かなくちゃいけないと思う。焦っているのか? そうかもしれない。まだなんにも成し遂げていない、という感覚を19歳ぐらいからずっと抱いていて、それがなくならないまま老いていって、感覚が鈍っていって、仕事をして家で酒を飲んで好きな音楽聴いて寝て、みたいな生活をきっとこのままでは繰り返すだろう。

さて、義務を果たさなければ。やるしかねえ!