風景と速度

@takusan_neyoの日記

雲が不思議な形で浮いている。体積や質量を保持したままで空中に浮遊するというのは、どういう気持ちなのだろう。

幼い頃、わたしはどこへも行けないのだとおもっていた。旅行とか、楽しいこととかの記憶があまりなかったから。今となってはお金を使えばどこへでも行けるのだけど、結局どこにいても自分がその座標にいる、という実感がとぼしくて、嘘のような視界の中で焦点を定められないまま立ち尽くすすることしかできない。

新幹線が街の灯りを流していく。その灯りには、ひとつひとつの暮らしの実感、言い換えれば各々の生活が組み込まれている。そのはずなのだけれど、観測するわたしはそれらを一つの質点のようにしか観測することができない。触れられない。それは遠くて、冷たくて、(しかしかけがえのなさがゆえに)涙ぐましいものだとおもう。

日が変わって、労働から帰宅して風呂に入った。長い風呂。音楽プレイヤーをタオルにくるんで風呂場に置いて、シャワーを浴びずにだらだらと風呂に入った。

スーパーで買ってきた酎ハイを飲む。流れてくる音楽に体を揺らして一緒に歌う。時間が足りないとおもう。ただしくて確かな生活を取り戻さないと、自分の思考が開かれていかないのではないか、と怯えている。もちろんそれはただの怯えだろうし、思考を開いていけるかどうかは畢竟自分自身にかかっている。それを理解することと、引き受けることとは違う。常に、何かを何かのせいにしておかないと、わたしは自分の足で立っていられないような気がしている。そして、自分の足で立っていられなければ、何も考えられず、何も書けない。だからこそ、今はこのだめな生活への言葉を吐くことで、言葉が進み、思考が動く。そうしてなければ死んでいるも同然だ。ツイッターにいても、誰かとラインをしていても、おしゃべりをしたり仕事をしたりしていても、本質的には死んでいる。

酎ハイがあいて、そろそろ眠る。溜まっている本が読めていない。わたしにできることはなんだろうか、と最近よく思う。いまは、自分の作りたいものについて考え抜くことが必要なのかもしれない。率直につらい。