風景と速度

@takusan_neyoの日記

夏と百閒

平成にとって最後の夏がくるのだという。あまり意識したことがなかったからほう、とおもったのだけれど、ということはすなわち平成にとって最後の春は終わってしまったの?と一瞬なって、でもそうなったら春の時点で騒いでるはずだよな、という考えにいたり、そこから改元がたしか来年の5月だったということを思い出した。

クーラーのあまりかかってない職場で、画面を見ていると気分が悪くなってくるので、一時間に一度くらい、トイレに散歩している。個室はいつも埋まっているか、和式だけあいていて、ひとつ上の階の個室が空いてるか確認しにのぼって、また降りてくる。座りっぱなしの作業だから、昇降運動をするのはけっこう気分がいい。

今年の夏はなにがしたい? というようなことを聞かれる。なにがしたいか聞かれると、なにがしたかったのかわからなくなる。わたしは普段からやる気がないしだらけがちだけど、そういうときの気持ちのありようとしては、「なにもしないがしたい」のであって、なにもしたくなかったわけではないはずだ。そもそもこの質問、模範解答が存在しないのに常套句化しているのが不思議で、「海に行きたい!」なんて言えるひとは気持ちの上でもう海に行けてるのだ。クリアできてる。それじゃ解答にならない。

夜更かししてだらだら自分の思考のフローを文章にするの、睡眠時間につりあわない。それならさっきまでしていたちくま日本文学全集の内田百閒のつまみ読みをしてたほうがよかったんじゃないか。でも、読んでたらいてもたってもいられなくなることもある。

解説の中で百閒は「宇宙人」と呼ばれていて、たしかに彼の文章の中の「わたし」のたたずまいは超然としているところがある。見習っていきたい。そのような超然とした「わたし」を生身の(いまこれを書いている)わたしにインストールすることができれば、常識的な考え方をしてしまうがために傷つくこともなくなるのかもしれない。この言い方は百閒に失礼かもしれないけれど。というこの発想自体が常識的なのか。先は長い。