風景と速度

@takusan_neyoの日記

3.5連休

労働をかさねていくとひとには限界が訪れてしまうのだということをすっかり忘れてしまっていて、その限界が颯爽とやってきたのが木曜日の朝だった。

上司に相談して午後休をもらい、金曜日も休みにして、3.5連休をつくる。とはいえ、遠くへ出かける気力も湧いてこないから飲みに出かけるしかできることがない。

言葉とか、生きるとかいうことはうさんくさいものなのだけれど、それでも、そのうさんくささを受け入れた上で、言葉とか、生きるということをやっていくしかないのだという事実は、諦めや絶望感のように僕の中にずっとある。

好きなひとに、好きだと伝えるのにどれだけ言葉を尽くそうとも、自分の中にある原初的な感情を、100%の状態で伝えることはできない。思ってることは伝わらないし、思ってることを「生きる」に反映してやっていくのはかなり難しい。

よくわからん話は置いておこう。

先日、ひととラインを交換する機会があって、お互いが共にQRコードの画面を出してしまって、あっ、となって、次にお互いが共にQRリーダーの画面に変えてしまって、再び、あっ、てなる瞬間があった。気恥ずかしいひととき。その人には猫のスタンプを送って、帰りに少し雨が降る中を、カップ焼きそばをすすりながら歩いた。

6月が終わる。京都に住んでいたころ、この時期の琵琶湖疏水沿いにてきとうにあるくと、蛍がちらちらと光って見えるのがうれしくて、その道を選んで帰ることが多かった。大学生だったころ、自分が何を感じてどのように過ごしていたのかはもう思い出せなくなってしまったけれど、生活の周りにある街の様子、生き物、人たちとの会話や思い出、そういうものだけが断片的に残っていて、それを心の中で追いかけるたびに、最終的には僕はもうあの街に住むことはないのだろうという感傷にたどり着くことになる。

最近は遠藤周作のエッセイを読んでいる。変人として描かれる阿川弘之北杜夫のエッセイも並行して読んでいるので、なんだか不思議な感じになる。それとは別に保坂和志をずーっとゆっくりと読み進めているのだけど、このような結末も正解もない読書が自分の心の支えになっていることをちゃんとわかっておきたいとおもう。