風景と速度

@takusan_neyoの日記

花見の帰り

目覚めた時にカーテンから漏れて顔にかかってかる光の差し具合がいつもと違っていて、昨日は深酒して先輩夫婦の家に泊めていただいたことにじんわりと気づいた。

このひとたちは、私の家が2時間ほどかかる遠いところにあるのを知っているのにも関わらず花見に呼び寄せ、「泊まっていきなよ、もっと飲めるよ」と終電をスルーさせる、すこし悪い先輩だ。

コーヒーをいただいてお家を出て、そこから2時間かけてゆっくり帰った。12時過ぎに最寄駅に着いて、ご飯を食べて家まで歩く。日曜日の昼間、八百屋のシャッターがおりていて、そこにペンキで描かれている落書きの存在感によってこの町が京都ではないことにすとんと納得がいく。もちろん、私が京都でそういうものを見たことがないだけで、本当はたくさんあるのだと思う。ある土地にいれば、その土地に求めているものに意識が向いてしまうだけだということかもしれない。

電車の中で、帰りに先輩からもらった、彼が先日頒布したという小説の同人誌を読んでいた。小説は苦手だが掌編なら読める。ゲスト寄稿していたガチの小説家の文章が最もエモーショナルだった。こういう文章なら読めるし、こういう文章を書けるようになりたいものだなと思うけど、結局のところそれをやる元気や気力がなくて、うだうだと日記を書くしかてなきないでいる。

電車を乗り換えて南下する。繁華街を過ぎて、座る人もまばらになってきても、私と私の隣だけは隣接したまま座っていて、そっち側、席あいたんだから詰めてくれればいいのに、と思いながら目的駅まで着いてしまった。こういうことはままある。

お昼に入ったラーメン屋では、人が並んでるけど箸を止めて談笑している二人組がいて、もう着席して麺を待っている私には関係ないけれど何故だかそわそわしてしまった。食べ終えて外へ出ると雨が降っていて、濡れながら帰った。

かけがえのなさというものがどこにあり、どのようにあるのか、というのがこの文章を書きながら頭に浮かんできた。かけがえがなく愛おしい、とおもう瞬間瞬間が生活の中にはあるはずで、私はそういうものを言葉や写真で記録して、その言葉や写真を見つめ直すことでそのかけがえのなさにいつでもうっとりできるようになりたいのだけど、ほとんどのものが記録されないまま過ぎ去っていく。こんな感傷ばかり抱いていたってしょうがないのだけれど、でもやはり物事を考えていくとシンプルにこのような感傷に行き着いてしまう。それは、小山田壮平が何度も繰り返して「忘れてしまう」こと、「消えていく」ことを歌っていることとどこかでつながっているのだと信じたいと思う。

消えていく瞬間を掴み取ることで、永遠がそこに生まれるなんて言い方をしたらかっこつけで恥ずかしい感じがするけれど、たまにはそういうこと言ってみても悪いことは起きないんじゃないかなと思う。