風景と速度

@takusan_neyoの日記

2月と3月

新幹線のホームの売店でひどくならんで買ったボトルコーヒーをすこし飲んだらねむってしまって、結局飲み干すことのできないまま、東京駅でそれを捨てた。

怖いと思っていた上司と、出張先でふたりで飲みに行くことになった。おれは一昨年離婚したけど、離婚は決してネガティブなものじゃなくて前に進むために必要やったんやわ、というようなことを言って、キンミヤのソーダ割りを飲んだそのひとは、すこししてから、今は好きに生活してるから、家で毎日焼き芋焼いてんねん、と言って笑った。わたしも笑った。

油断していたから、毎日をすごい速さで忘れていってしまう。きっと、気をつけていようと忘れていってしまうのは同じなんだけど、日々の記憶におもりをつけて、出来事とかそのときの色や匂いを、わたしの中にとどめようとしない限り、とどまることなくそれらは行ってしまう。夜が明けて朝が来るのは怖い。自分の身体や心が連続体ではない、という感覚が、いちばん現実感をもって覆いかぶさってくるのが夜だ。忘れるようにねむるしかないのか。

だいぶあたたかくなってきて、もう春なのかもしれない。わたしは相変わらず、飲み歩いてばかりでお金がない。こんなご時世だし、不要不急の飲み会をしましょう、といって先輩を誘って飲みに行く途中で、べつの友達にも飲みに誘われた。結局そのあと、いろんなひとが集まって、ぐちゃぐちゃになりながら飲んだ。滝口悠生の「寝相」という小説がこんな感じだったな、と思いながらわたしは深夜2時のカラオケボックスで入れられるがまま星野源を歌っていた。

飲み会からべつの飲み会へはしごする間に、隙を見てお気に入りのラーメン屋にいった。その結果、お腹がいっぱいになりしまってしまった。合流した後はジンジャーエールと、グレンリベットのロックをゆっくり飲んで話したのだけど、そうすると、幸せな感じはずっとつづいてるのに酩酊したときのつらさが全くなくて、そういう境地があるのか!と感動した。先にシメを食べることで酔いを継続させてしまう作戦は、金欠のわたしにとって有効かもしれない。ひどい酔い方もしなくなるし。帰りにマスターに「なんか今日いつもとぜんぜん違いますね」と言われて、ふだんのわたしはいったいどんなにひどいのだろう…と怖くなりながら帰った。

4月がやってくる。いろいろなことがよくわからないまま。確かなことはなにもないし、小さな不安がすこしずつ積まれていくようないまのこの感じがずっとつづくのだと思うと、つらくおもえてくる。わたしはわたしの生活をまっとうしていく他はないのだけれど。本屋と酒場が開いていればある程度は今まで通りになるんだろうか。それもよくわからない。