風景と速度

@takusan_neyoの日記

読書録その1・塚本邦雄『感幻樂』/近況

塚本邦雄全歌集の2巻が出てたので買った。

彼は1960年くらいから前衛短歌をおしすすめたひとで、とにかく歌がとてもかっこいい。

(以下、引用は全て文庫版『塚本邦雄全歌集 第二巻』(短歌研究文庫)所収の『感幻樂』による)

 

固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男のことば

 

固い襟に喉が擦れて赤くなっている。巻頭に置かれたこの歌のかっこよさは「さらばとは永久に男のことば」と言い切る強さの中にある。〈固きカラー〉はやはり既存の枠組み(たとえば"近代短歌")の不自由さ、居心地の悪さの暗喩なのだと思うし、その象徴性は塚本を語る上で重要なのだけれど、わたしはあまり興味を持てなくて、「さらばとは永久に男のことば」がなぜこんなに強度を持ってわたしの中に飛び込んでくるのだろう…ということを考えさせられる。この〈男〉が昭和の"男"であることは間違いないとおもうし、この価値規範を是とするわけではないけれど、それでもフレーズとしての強さや魅力がある。

 

雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ

 

真昼の雪が降って眉について、それが眉をかざっている。ひとが傘をさすなら私も傘をさそうよ。というそれだけの歌なのだけれども、わたしはこの歌を読むだけでなみだがこぼれそうになる。

まひるの」「まゆ」「かざらむ」という細かい音の絡み合いが心地よいのに加えて、三句目以降で妙に力の抜ける感じがあり、それが一首の雰囲気を支えている。この歌集は彼の6冊目の歌集なのだけれど、はじめから追っていくと、「ささうよ」というくだけた口語体が出てくるのに不思議な新鮮さが感じられる。

雪と傘の名歌といえば小池光の〈雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ〉を思い出すし、この歌を思い出すと次は山中智恵子の〈行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ〉も思い出す。どれも超絶名歌なので気になる人はググってみてください、絶対誰かが鑑賞文を書いているので…

 

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ

 

冱ゆるは「さゆる」(冴える、という意味)、戀は「恋」の旧字体

馬を洗うなら馬の魂がくっきりと冴えていくまで洗い、人を恋しく思うならその人を殺してしまうほどの心であることだ。

本来こういう散文訳には意味はないのだけれど一応つけておく。ググったら、「それほどの心を持ちなさい」みたいな訳が出てくるのだけれど、そうしてしまうとこの歌の持つ解放感がなくなってしまって台無しになるとおもう。

もちろん、この「こころ」は誰の心でもない普遍的なものなのだし、歌自体がアフォリズムとして機能しているのもそうなのだけれど、「こころ」で止めることが大事で、そういう心を作品の中で差し出す、提示することに意味があるのだと思う。その「こころ」がだいじだ、みたいなメッセージとして読むことも可能だし、そのような「こころ」自体への、プラスマイナスないまぜの感じを読むこともできる。

 

 

 

元気が出ないとき、わたしは音や言葉や酒のなかにぷかぷかと浮かぶことでなんやかんややりすごすわけだけれど、時間だけが無慈悲にわたしを裏切っていく。起きて、仕事へ向かって、帰って、眠る、という繰り返しの中でわたしの中のなにか重要なパラメータがすりへっていくのを感じる。音や言葉や酒は、一時的にそのすり減りを止めてはくれるのだけど、その値はなにか特異的な"歓び"を通じてしか補給されない。

 

人生にセーブポイントはない。けれど、言葉や作品を通じて感情のセーブポイントをつくることができる。いまはそういうところにしか興味がない。何回でも自分の感情をやり直したい。