風景と速度

@takusan_neyoの日記

在る光

なにかを感じながら24時間過ごしているはずなのに、正確に記述しようとすればするほど真空に近づいていくような苦しさを感じる。

いまわたしは居住地を離れたところで、毎朝出かけて毎晩帰ってくる、の繰り返しをしていて、乗るべきバス停や降りるべきバス停がようやく覚えられてきたところだ。

わたしが離れている間に、家族が地震にあった。相当揺れて食器類が割れたらしい。わたしは大きな地震の揺れを体験したことがないので、それがどのように揺れたのかはわからないし、そこに住むひとたちがどのように揺れを感じ・慣れていくのかもわからないのだけれど、自分がそこにいないことにいくばくかのむず痒さを感じている。わたしの心や知識は揺れや被害を感知しているのに、体がついていっていない。

普段と異なる生活は何か変わるかもしれないと期待や不安を感じていたけれど、対して何も変わりはしない。いつも会うひとと会わなくなって口数が減るだけだ。しかし彼らは私の中にいないわけでなくて、むしろその存在が強まっている。簡単に言えば、曽我部恵一が「きみがいないことはきみがいることだなあ」と歌っているのと同じことだ。不在が照らす光はぼんやりと、しかし強い輝きを持った、決して触れられることのない光だ。

ただ、それは数週間過ごしたらまた彼らと会えるからそう思われるだけなのかもしれない。会おうと思えば会える、という安心感が、不在のさびしさを、輝きへとごまかしているだけなのかもしれない。

会えなくなったひとのことをおもう。会えなくなったひと、と言って思い出されるのは必ず、多かれ少なかれ好意を抱いていたひとだ。小学校のときに好きだったあの子や、喧嘩別れとなって全ての関係を断たれたあの人のことだ。彼・彼女らはまるで、会うことのできない憧れのミュージシャンのようなものだ。「生」ではない記憶や情報だけが彼らをわたしの中に再構築させて、それは遠くの星のように光る。小さいけれど強い光。

明日もわたしは何事もなかったかのように起きるだろう。一見孤独に見えるが、そこにはたくさんの光が降り注いでいる。遠く近く。そして何事もなくその日をはじめるのだと思う。