風景と速度

@takusan_neyoの日記

移動

4月の空気は、どこか不安定で、憂鬱さとかすかな光を兼ね備えていて、そのなかにどっしりと川が流れている。川はその存在をもって、重力をわたしたちに再認識させる。高度の高い方から低い方へ。わずかだが、着実に。

今年の桜は散るのがはやいねえ、3月終り暑かったもんなあ、などと言い合ったとおもう、その川べりで。それは一週間前のことにも思えるし、もう何年も前のことのようにも思える。ただ時間はぼんやりとしていって、記憶の中で、ある特定の数値を代入することのない関数のように、いかなる時間軸においても普遍的に成立するものとしてふたりは手をつないでいた。

桜を見るということは毎年のことだから、年ごとに散るのがはやいとか遅いとかいう違いはあれど、その普遍性において共通のものなのだ。ちいさな差異はすべて忘れ去られていく。

しかし、この年度の変わり目は、毎年のことではないことが起こって、具体的に言えばそれは引越しなのだけれど、広い家に住むことになり、共同生活を営むこととなった。わたしは履きなれないルームサンダルに、居酒屋で他のひとの話に入れずにグラスに口をつけておく時のような居心地の悪さを感じている。

町から町へ移動すること。最寄りのコンビニやスーパーが変わる。病院が変わる。前の町で通っていた耳鼻科はすばらしかった。この町に耳鼻科はあるだろうか。通勤経路が変わる。30分に1本しかないバスからは大きな公園が見え、わたしは音楽を聴く時間が増える。

住民票を切り替えに区役所へいく。電車で一駅移動しただけで、町の空気は変わる。けれど、どこもかしこも、学生時代に住んでいた左京区のような、町全体が気だるく冷たい熱気を帯びた感じがない。住む場所、として洗練された町にいると、鴨川を見て重力を再確認する作業が必要だとおもう。それは効率よく生きるためにはなにも意味をなさず、だからこそ必要なのだ。

今日は元気がないからはやく寝なければならない。明日もしごとだ。