風景と速度

@takusan_neyoの日記

贈与・意味・論理

すきなひとにプレゼントを贈りたかった。仕事を早めに終わらせて、バスで駅まで向かって、家とは反対方向の北の繁華街へと足を向けた。

ロフトをだらだらと歩いて、レターセットを買う。それと、自分用のイヤフォンも。イヤフォンはこの間、ポケットに突っこんでおいたらなくなっていた。たぶんティッシュのゴミと一緒に捨てた。カナル型イヤフォンのシリコンの部分だけが部屋に置いてある。

イヤフォンはなんとなく買ったのだけれど、正直、携帯のバッテリーが死んでいるから移動中に音楽を聴いている余裕はないかもしれない。まずソフトバンクに行くべきだったかもな、とおもいつつ、買ったからには使いたい。

街に春が近づいているのではなくて、街が春を近づけているような、そこだけ重力の強まったような人混み。お酒や洋菓子なんかプレゼントにいいかもなと思って高島屋の地下へもぐりこんだら、さらに人が増える。今日は世間的にホワイトデーだとそこで気づいた。仕事帰りの男たちが、家族のためにお菓子を物色している姿は、見ててなんだか暗い気分になる。明るい暗さがそこにはある。自分がそういった”社会”へうまく参加できているのかわからないから、そう感じるのかもしれない。

洋菓子はあげて楽しんでもらうにはあっけなさすぎるし、値段と分量のバランスが難しい。ウイスキーやワインを見に行ったのだけれど、渡してそこから持って帰ってもらうにはすこし荷物になる。困った。

収穫のないまま鬱々と高島屋を出てきて(この辺りで、リュックを背負っている肩や腰が悲鳴をあげはじめる)、わたしは街をさまよう。道頓堀の汚く澱んだ川の面にネオンの光は揺れる。あなたのほしいものがほしいよ、と心の中で呟きながら歩く。

行きつけの本屋に行って、迷った末に、外国のフォトグラファーのzineなど、数冊の本を買う。荷物にならない厚さのもの。表紙だけでも部屋に置いておきたくなるようなもの。本は、わたしたちの関係性のなかで、無用に近づけば近づくほどよいとされているが、どんな本もなにかに意味づけされていく。意味と折り合いをつけながら生きていかないといけない。意味はほんらい、恥ずかしいものだ、ということをおもう。(そういえば今日、職場で「ホワイトデーにキャンディをあげると”あなたが好き”という意志表示になる」という情報を得た。これを聴いて無性に恥ずかしくなったのだ。)

意味と折り合いをつける、ということに関して。詩的言語と、論理的な言語は基本的に水と油のように弾き合う。論理的な言語というか、意志伝達のコスパの良い言語、つまり、日常わたしたちが使わされている言語。詩的表現は、論理を介さずできているように見えつつ、じつはごりごりに論理を介しているようにおもう。ある表現を考えるとき、こうすると論理的すぎるからより非論理的にする、という考え方は充分に論理的言語の体系の中で行われているから。非論理的=詩的、というわけではないのだけれど。論理的な言語のイデアがあるとして、そこから何かしらの崩れ、が生じることによって詩性が立ち上がってくるのだとしたら?

ここまで考えて、電車を降りる。家までの道のりを15分かけて歩く。ヒートテックにじんわりと汗がにじんできて、もうすぐ新年度が来るんだなとおもった。