風景と速度

@takusan_neyoの日記

夜を眠る

文章を書くときに理性と感情をどのように混ぜてやっていくかというのは重要なポイントなのだろうけれど、しっかりと文章に向き合えていないうちはそこが自分の中で中途半端になってるんだと思う。

エモは細部に宿る——ちなみにこの「○○は細部に宿る」、という構文は使うだけで謎の真実味が得られる便利フレーズなんだけど——ともかくわたしが言いたいのは、理性と感情は相反するというわかりやすい二項対立があるのではなくて、理性的にエモをコントロールしたり、感情にまかせて連ねた言葉が無意識下に何らかの論理構造を秘めていたり、ということがあるということだ。理性⇔感情の相互作用によって常に文章は進んでいく。わたしの場合それが文体の選択であったり、助詞の選び方に現れる。

川が流れているからこの場所は橋になっていて、でも下に川が流れていない部分とはアスファルトで継ぎ目なく繋がっているので、橋を橋たらしめているのは欄干なのだと思う。欄干の上に缶チューハイ、秋梨味のやつ、を置いて、イヤフォンからの声に耳を澄ます。君はほんとうにだめな人だよねえ、というようなことを言っていたような気がする。私はそれにどう返したかはわからない。川は川そのものを運び、その上に街灯の光が落ちてきらめきながら視界を揺れている。

そこから家までの記憶はなくて、多分缶チューハイは欄干の上に置きっ放しにしてきた。涼しい道を歩いて、曖昧な言葉を電話口に吐いて、おやすみと言葉をかけた。眠る前にひとと話すのは泥酔していたとしても心を落ち着かせることができる。その日、短い夜を眠りながら、夢の中には過去の恋人たちが出てきて、そのひとりひとりが「君は/○○はほんとうにだめな人だねえ/ですよね」と口にする。私はそうかなあと首を傾げて、好きだったひとたちに、どうか私に構わず、私と全く関係のないところで、幸せに過ごしていてほしい、という祈りを捧げる気持ちで、夢の中だけれど強く目をつぶると、むしろ身体は夢から醒めて、布団の中で背を丸めていた。すこし開けた窓からは秋の風が吹き込んでいた。

上の文章を書くのにすごく時間がかかった。うーん難しい。「夜を眠る」というような表現、つまり自動詞の他動詞化は助詞によって言葉に負荷をかける表現がけっこう好きなのだけれど、韻文の中で使うのと散文の中で使うのは負荷の密度が全く異なる感じがして、どういう濃度で織り込んでいけばいいのか、今のところまだよくわかっていない。鍛錬が必要だなとおもう。

今日飲んだお酒:ウィルキンソンハイボール9%、氷結STRONGの期間限定りんご味、そして定番の氷結レモン。

だらだらと音楽や動画を摂取しながらお酒を飲んで、文を書いたり書かなかったりする生活はきもちがいい。

わたしにとって、文章や作品を書いている/書いたことも、書いていない時間も、あまり大差のないものだと考えていて、書いていない時間ですらわたしにとっては作品同然の尊い生活なのであることを最近よく実感する。

最近あったよかったこと:久しぶりに会った作家の先輩と、数年前の裏垢JK界隈はすごかったという話をしたこと/職場で、「めっちゃ綺麗に真円な蜘蛛の巣が張ってますよ!」と誰かが見つけたら数人ぞろぞろとやってきて、「これどういう風に作られていくんやろなあ」「動画とって観察してや」などの会話が起こったこと/良い本を読んだこと。

生きていくことは難しい。きょうは他部署のひとがうちのとこにきたかと思えば「今日こんな服着てました?朝めっちゃ死んだ顔で歩いてましたよ」指摘された。顔は死んでるのはデフォルトだし、なんなら日頃から積極的に表情を死なせることである種のしんどさアピールをしているつもりなのだがなかなか伝わらない。基本的には仕事なんてしたくなくないですか?

いまわたしのパソコンからはブルーハーツの「月の爆撃機」のライブ映像が流れている。これは本当にいい曲だなとおもう。

「手掛かりになるのは薄い月明かり」というグッドフレーズの御多分に洩れずやはりいい曲。

今日は微妙な時間にあがったからモーニング立ち読みができたけれど、モーニングで立ち読みしたい漫画も減ってきた。やはりアフタヌーンと楽園が最強なのだろうか。コンビニじゃなくて立ち読みできるようなお店を探さないとな。立ち読みは悪という風潮もあるけど、好きな作品はほんとうに単行本を買っているからゆるしてほしい。

 

やっぱり生きるのはむずかしい。

残暑/MacBook

MacBook Airを買ったのでうれしくて文章を書いてみざるをえない!まず感じたことだけれど、意外とキーボードの互換性がほぼwindowsに近い。iPadで執筆するために買ったロジクールBluetoothキーボードは配列がwindowsとかなり異なっていて(たとえば@とか()とかがwindowsと違う位置にあった)書きづらさを感じたのだけれど、MacBook Airにおいては今のところそのようなストレスは感じていない。前のMacBookからそうなのか、最近のMacBookがそうなのかはよくしらないけれど。互換性があるのはよいことだ。

あと、噂には聞いていたけれどトラックパッドの使い勝手がめちゃくちゃよい。マウスが要らないなんてほんとうですか?と思っていたけどこれは本当にマウスを買う必要がなさそう。スマホさわるみたいにタップするだけでクリックできるし、ドラッグもすいーっと可能。操作性がいいことは大事だ。なぜかというと、思考と動作がそのまま直結するから。文章も、できるだけアウトプットの速度が速いやり方でやる方が、生の考えを生のままで発信できる。

夏が終わりつつあるけれど、結局なにが夏だったのかはよくわからないままだった。仕事はやる気がでないし、精神的にはどん底にいたし、ただひたすら酒を飲み、家でゲームをして、気絶するように寝るような日々を過ごしていただけだった。文化的に生きることを放棄することは容易く、ゲームしたりユーチューバーの動画を見たりしながらゲラゲラと笑って、12時前にあー明日も仕事かいやだなあとぶつくさ言いながら寝て翌朝仕事に向かうだけの生活は、しかし最低限心地のよいもので、気持ちを麻痺させて、蝕んでいく。執筆意欲も意義も見えなくなった生活の中でお酒にすがり、意味不明なツイートを繰り返し、時には会社の先輩の前で泥酔して号泣したりしながら、それでも生活が回っていくことの尊さを根底に抱えながらここ最近は過ごしていたと思う。

最低な/最低限な生活を回していきながらその中に尊さを感じることはわたしにとってはとても大切に思える営為だけれど、実際は、それを言語化しないと、その尊さは、1秒ともたずに消え去っていってしまうのだ。

だから、書くしかないのだ。

現在、ツナ缶に醤油とマヨネーズをぶち込んだものを食べながらセブンイレブンのCLEAR COOLER(レモン味、100円)をいただいている。なにが生活なのかはよくわからないけど、生きていくことはこれぐらい適当でいいし、その中に光がある、のだと信じないことにはこの形勢は逆転できない。

すこし饒舌になってしまった。残暑もいずれ終わって秋がくる。秋はいちばんわたしが好きな季節なんだけれど、そのころには気持ちを立て直せていたらいいなと思う。

8月

頭の中でずっと積み木が積まれてゆくような感覚があって、でもテトリスぷよぷよじゃないから消すこともできなくてぐるぐると気持ち悪くなってくる。なんなのだろうと思ってたんだけど、この感覚を夏バテと呼ぶのであれば、わたしはずいぶん昔から夏バテを知っていたはずなのにそれを夏バテだと認識していなかったのかもしれない。

一言で言えば頭の中にもやがかかった感じなのだけれど、少しずつそのもやが増幅していくので、パソコンを見ていられなくなり、うーっと声を出してみたり歩き回ってみたり、冷たい(あるいはあえて熱い)コーヒーを飲んでみたりしてやり過ごしている。

夏だというのに、なぜ工事をしたりするのだろう。職場の最寄りにあった、住宅街に突如としてあらわれるカラオケチェーンがあとかたもない更地となり、熱気でぐらぐらする空気の中にバックホーがお座りしている姿を見ると、体感的な気温が2度ぐらいあがっている気がする。やはり日が長い時期に工事を行った方が1日あたりにできる作業量が増えるということなのだろうか。季節に労働時間をコントロールされるのは多かれ少なかれあるけど嫌なことだなあとおもう。

電車で京都へ向かう。今年初のビアガーデン。

美容師の人と、会社員と、アーティストと、飲み屋の店長、雑貨屋の店員と飲んだ。会話はアクロバティックで、フリースタイルで、話に笑ったり頷いたりしながら、自分の面白くなさをしみじみと味わっていた。それもきみのいいとこやで、来てくれてありがとう、と言われながら人の少ない阪急京都線に乗り込み帰路につく。しょうもない話をつらねていくことで、いまこころのなかに抱えている不安や、つらさや、絶望の気持ちに、それは消え去ることはないけれど、せめて、そのしょうもなさによって、何かを救うことができるのではないか……と思っている。

美しい夢も、苦しい夢も、えっちな夢も、本質的には悪夢である。夢はわたしを救ってはくれない。というか、飲酒やセックスなどの快楽すらもわたしを救いはしないし、結局のところ、自分の感情に対していちばんなんとかできるのは自分の感情自身であり、自分の言葉でしかないのではないか?と近頃は考えている。

近頃は考えている、というのは嘘で、ブログの文章はほぼ全て即興で思いついたことを書いている。書いているいま、思いついたときのわたしを書いているわたしは追い越し、べつの考えが浮かんできたらそちらにもう気はうつって、なにをそのとき思いついていたのかは書いた文章にしか残らない。でもそれでいいし、それが生きるということだと思うし、わたしは結局書き続けることでしか、自分の生きていく/生きてきた痕跡を見つめられないのだとおもう。それでも、このようにして刹那的に生きることは、不幸なことではないはずだと信じている。

 

日照雨

ああそうか日照雨のように日々はあるつねに誰かが誰かを好きで/永田紅『北部キャンパスの日々』

※ルビ:日照雨(そばえ)

 

北部キャンパスへ通う日々を失ってから2年が過ぎた。

京都は平坦な道が多いけれど、百万遍の交差点から東へと今出川通はゆるやかに坂道をなしていて、その坂の途中に北部キャンパスはある。『夜は短し歩けよ乙女』の映画にも出てくる進々堂を過ぎてもう少し行ったところを左に曲がればいい。

歩きながらどういうことを考えていたのか思い出そうとしても思い出せない。でも、あの暑い夏の京都市を歩いていく身体の感覚はいまでも残っていて、頭上にあるユリノキのやわらかい葉っぱの感じとか、それが舗道に影を落としながら揺れている感じとかがいま目の前にあるみたいに思い出せる。

短い詩のよいところは、すぐに思い出して暗誦できることだ。

たくさんの詩のテクストを心に忍ばせていつでも引き出せるようにすると、日々の中でであった景色や状況と、引き出しの中の詩が共鳴して、現実に詩情を与えてくれる。現実が詩に影響を及ぼすのと同様に、詩もまた現実に影響を及ぼすのだということを身をもって実感できる。

わたしは、日照り雨について「狐の嫁入り」などの呼び名以外に「日照雨(そばえ)」という呼び名があることを知っていて、それを日照り雨が降るたびに作品とともに思い出す。それは精神的に豊かな営為だと信じている。見ている世界を、詩の世界が拡張し、別の輝きを見せてくれるから、わたしは短歌に救われて、魅了されたのだと思う。北部キャンパスで過ごしたやるせなさの日々は翻って、同時に美しい日々でもある。その記憶の中でも日照雨が降っていた日がきっとあったのだと思う。

 

7月

泥酔。そこに未来はない。過去もなくただこの時間だけが確かに感じられる。セミかどうかわからない虫の鳴き声が聞こえる。美しい夢はやがてなくなる。捉えようのない現在だけがわたしの胸を締め付けながら、しかし生きる実感は確かにそこにある。

黎明。白髪の男が空き缶を集めて自転車に積んでいく。わたしはその横を通り過ぎる。男とわたしの人生が一瞬重なって、遠ざかっていく。

ここまで書いて、酔っ払って寝た。

夢の中で、昔すきだったひとが出てきた。朝、へんな汗を拭いながら、そのひとのことを思い出していた。

高校生の頃、わたしはバンドをやっていて、当時出入りしていたライブハウスで他校のひとたちと知り合い、mixiで繋がり……という流れについて、ある種の心地よさと悪さの併存した形で受け入れていた。

そのひとも、そういう流れで出会ったひとだった。力強い歌声と、透き通るような声を持ったひとで、わたしはとても惹かれていたけれど、何か行動に移すことはしなかった。それは、彼女が、別のバンドマンに惚れているのがはたからみてもわかったからだ。

結局、その人への思慕は諦めて、心のうちにしまったまま数ヶ月くすぶって、次の恋へとうつったのだとおもう。

わたしはひとを好きになるときによく思うことは、その人をひとりじめしたいということではなく、その人そのものになりたい、ということだ。すてきなひとに対しての憧れは、強い光となり、わたしの現状に影を落とす。憧れは強くなるほど、自分とのコントラストにくらくらしてしまう。自己否定の気持ちはどんどん捻れまくって、わたし自身がそのひとであったらいいのに、という焦燥を生み出す。

七夕だけれど特にすることもなく生活はつづく。おいしいと評判の近所の定食屋さんでヒレカツ定食を食べた。しつこくなくておいしかった。いまのわたしにとくに願い事はないけれど、わたしのすきなひとたちやすきだったひとたちの願い事がわたしの知らないところで叶っていたらいいなとおもう。

 

 

樹形図

選択肢がどんどん分かれていく。見えているものだけでこれだけあるのに、見えてないものも含めたらいったいどれだけの選択肢があるのだろうか?

たとえば通勤時間を共に過ごす音楽をApple Musicから選ぶために、週に何度かてきとうな新譜や、直近に再生したものによって自動サジェストされる旧譜をライブラリに追加するのだけれど、これを続けていくと聴き込むアルバムを追加するアルバムが上回り、いくら通勤時間があっても足りなくなる。結果的に一聴して気に入ったものを何度か再生することになり、様々な音楽に触れる機会を逃しているように思う。

ごくごく当たり前のことだけれど、何かを選ぶということは何かを選ばないことだ。わたしはバンドマンになることを選ばなかったし、文学部に進学することを選ばなかった。あの人と付き合うことも東京に暮らすことも選ばなかった。選ばなかったひとつひとつのことが、お守りのようにわたしの心にぶらさがっていて、だからこそ選んだことを大切にしていかなきゃいけないと思う。この「だからこそ」が大事で、選んだことは選んだから大切なのではなく、選ばなかったものが大切であるからこそ選んだことも大切となる。

上記は認識はしていたけれど選ばなかった選択肢についての話だけれど、自分の中では認識すらしていなかった選択肢も、今まで生きてきたなかでたくさんあっただろうし、これからもたくさんあるのだろう。それは仕方のないことだけれど、できる限り多くの選択肢を演算し見つけられるようにありたいと思う。樹形図を必死に書いて確率の計算をしていたあの頃のように。

今日は気持ちが詰まっていたので、定時後の15分間の休憩のうちにチョコレートを買ってきて甘いカフェオレで流し込んだ。わたしの元気がない分、誰かの元気が余っているのかもしれないなと思った。