風景と速度

@takusan_neyoの日記

正しさと氷

異性愛者以外をおれは認めない」という言葉を「生物学的に間違っている」という風に言い換えて主張をなさる方をたまに見かける。わたしは生物学に明るくないけれど、「生物学的に間違っている」概念や存在があるとするならば、「生物学的に正しい」概念や存在もあるにちがいないだろう。実際に、異性愛でない概念や異性愛者ではない存在(こういう言い方も変だけれど)が認められる以上、それらも「生物学的に正しい」ほうに分類されるような気がするのだけれど、いったいぜんたい「生物学的に間違っている」ものとはなんなのだろうか、ということが少し気になった。

 

先月末に提出しなければならなかった作品の〆切を大幅に超えていて、金曜日までに出しますといってから出さないまままだなにも連絡していない。こうなってくると怖い。編集者に「締切に間に合わせないなんて、人として間違っている!」などと言われても文句は言えないかもしれない。ちなみにこの「人として間違っている」とか「人として正しい」とかいう考え方は、要するに発話者の善悪観の発露なのであんまり気にしなくてよい。こういうもの言いをする瞬間、わたしたちは神のような立ち位置に立って「人」の行為をジャッジするのを赦される。人間というのはこうやって発話の中でステージを変えながらなんやかんやするのだ。(この発言もちょっと上のステージから行われている)

 

ともかく、進捗を生み出さないと原稿は書き上がらないので、このようにして思考の流れを途切れないように、脈絡なく繋げながら文章にしていき、その中でなにかええ感じの言葉をピックアップできたらそこから作品につなげていこうという魂胆なのだけれど、今日のところは無理そう、というか明日の仕事もあるしまあ無理。なのだけれど、久しぶりに叩くキーボードの反力が、妙に心地いい。思考の流れを大切にするやり方は、吉田篤弘の「京都で考えた」(ミシマ社)を読んで真似しようと思った。この本には目次はあれど本文に表題が書いていない。ひとつひとつの話がアスタリスクで切られながらも、ゆるく繋がって、一冊の本を漂っている。

 

旅行をした。途中、電車から川を眺めていたら、川の一部分が凍っているのが見えた。そこから注視していると、視界のなかに凍っている部分はどんどん増えていって、しまいに視界のなかの川すべてが凍ってしまった。さらに電車が上流へと進むにつれ、凍っているところはなくなった。なぜあそこの部分だけ完全に凍っていたのだろう。もちろん凍っていたのは表面だけで、中はしっかりと流れていたのだろうけれど、不思議な光景だった。その夜、宿の冷蔵庫に買ってきた水を冷やしておいたら、翌朝その表面の部分が凍っていた。通常の氷とは異なる氷を、近い時間にふたつも見たのは偶然なのだろうか。偶然でもよいのだけれど、こういうことに気づき、思い、言葉にしているとき、自分自身の感情や生きている時間が、律動をはじめるような気もする。