風景と速度

@takusan_neyoの日記

犬と僕

犬が家に来たのは、2000年代にさしかかったころだったとおもう。当時僕は小学生で、彼は生まれて5ヶ月くらいだったが、大型犬に分類されることもあって僕よりもいくらか、いや、相当大きいように感じた。望まぬ来客に恐れと警戒を抱いていたのかもしれない。

金色の長い毛並みをした、穏やかな犬だった。ご飯を囲むテーブルの下でのそっと脚をくずしている彼の毛肌へ、ぼくが冷えた足裏を乗せる。そうして足裏をあっためていても、彼はこちらを一瞥もせずぺたっと座っているだけだ。

ソファの上で高校生の僕が寝ていると、犬は僕の足もとあたりに乗っかってきて、三人掛けのソファの四分の一ぐらいの場所を占拠する。僕は足をあげて、犬の背中にふくらはぎを乗せる形で眠る。二人とも、ばかみたいによく眠る。そうして犬の毛だらけになった服を母親に怒られるのだった。

長い毛の犬を飼うと、家中が毛でまみれる。ロッキーの毛だから「ロキ毛(ろきげ)」と我が家では呼ばれていて、リビングから寝室、さらには弁当箱の中にまで侵入してくる。僕の学ランにはいつも彼の毛がついていて、友人に「毛まみれやん」とよく笑われた。

彼は14年生きた。大学自体、京都に住んでいたからあまり遊んでやれなかったとはいえ、僕が生きてきた時間の半分以上を占めている。リビングのテーブルの隅には、骨壺と写真がすっと飾られている。

死ぬ、ということがなんなのか、あまりよくわからないけれど、死んだということは、生きたということと表裏一体だ。彼が生きた、という記憶がこころの中にある。存在する場所の位相がすこし変わっただけなのかもしれない。会えなくてさびしい、と思えば思うほど、彼の存在は濃くなる。さびしさが胸の底にチリチリと煤を落とすようなとき、それは彼が心の中で吠えているのかもしれない。だから、さびしいのも悪くないかな、とおもう。