風景と速度

@takusan_neyoの日記

ベクトル

シモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』の中で、重力は下方向の、恩寵は上方向のベクトルを持つ、という感じの抽象的な話をしていたのとはあまり関係はないけれど、心が沈んでいるときにでてくる言葉や態度が、むしろ浮遊したものになることもあるのかもしれない。

 

というところまで書いたけれど、むしろ自分が書いた作品をみつめていると、今の心のあり方じたいが「沈み」や「落ち込み」ではなくて、「浮遊」なのではないか、ということを思った。精神に地平があるなら、そこを踏むことができない感じ。地を踏まなければ歩くこともできない。感情が動きそうなできごとたちの存在は認知できるが、そこに触れにいって感情をうごかすことができない。ただ見守っているだけである。それは悪いことではない。

 

言葉にするということで何かを分かった気になってしまうし、言葉にすることは何かを台無しにすることだ。どんな言葉も言った瞬間嘘になってしまう。

でも、だからこそ、言葉にかけるのだとおもう。台無しにしつづけていくしかない。そういうアティテュードを忘れないように書きつけておこうとおもった。