風景と速度

@takusan_neyoの日記

ストロング・ゼロを飲みながら

ストロング・ゼロを飲みながらキーボードを

病気にはなりたくないなあとおも

屈とした気持ちで毎朝毎朝しごとにいっています。

 

ちゃんとした言葉で文章を書き始めようとしたけれど、できそこないの現代詩みたいになってしまった。できそこないの現代詩ほど手のつけられないものはなくて、本人はそれがおもしろく・価値があり・世間がそれを認める才能を持っていないのだと盲信しながら書くものだから、目の当てようもない

 

ぼくが詩のような言葉、あるいは詩のように言葉を弄するときに考えることのひとつに、そこにいかなる他者も持ちこまれずにぼくがここに在ることができるか、ということがある。

 

2連目で「目の当てようもない」と言っているぼくは、1連目で「鬱」「鬱」と言葉遊びを弄するぼくに対する「他者」である。

 

言葉を使ってなにか表現をしようというとき、当たり前だけれどそこには作者としてのぼくと、それを「目の当てようもない」的なポジションから処すぼくが同時に存在する。他人からはこう見えるだろうな、とか、これちょっとださいかもな、とか思いながら、言葉を整えたりして、軌道修正したり、あるいはその言葉をそのまま没にしてしまったりする。

 

けれど、詩のような言葉、詩のように書きつける言葉というのは、本来そういった他者の目から遠くにあるはずのものなのではないか。

ただぼくが「ここに在る」ということを確かめ、カタルシスを得て精神を解放させるだけの言葉をどうにかして吐くことができないんだろうか。

 

「いかなる他者も持ちこまれずにぼくがここに在ることができるか」というのは他者の意見を気にしないということではなく、自分のなかで架空の他者を想定して、その声にしたがわない、ということだ。

 

そうおもうと、冒頭の1連目の言葉も、何かしらの想定に従って出てきた言葉に過ぎない。

 

言葉にしようとおもった何かは、言葉にした瞬間に変性して、質感をうしなってしまう。だからこそ、ぼくは、その「何か」の質感を、できるだけ損なわないようにテキストを生成していきたい。

 

逆に言えば、安易に共感できる言葉――「他者」を通りまくってでてきた言葉に猜疑心を抱くのも無理はない話だ。言葉というのはコミュニケーションのために作られたものであるがゆえに、ある一人の人物の中では絶対的に孤独なものだとおもう。他者フィルターを通じた言葉に内実を感じるとしたら、ぼく自身がその想定された他者にぴっちりと一致したときだろう。

 

ストロング・ゼロもなくなってきた。今日は一段と冷えるけれど、何かに火が点ったような気持ちで部屋に座っている。