風景と速度

@takusan_neyoの日記

7月

ここ数ヶ月なんだかどたばたしていた。仕事はむしろこれからが忙しくなる感じなのでまだまだ油断できないのだけれど。

 

春に、何年間も世話になっていた先輩が外国へ引っ越した。仕事の都合らしい。いつも宅飲みで溜まり場になっていた先輩の部屋にはもう異なる誰かが住んでいるのだとおもうとむず痒くなる。

 

その最後の日に飲み会をしていたときに、友人から、友人がもうすぐ親になることを伝えられて驚いた。そして、初夏に執り行う結婚式でスピーチをわたしに頼みたい、と伝えられてどぎまぎした。

 

ほんとうは先輩が友人にスピーチをするべきだったのだとおもう。ふたりで旅行に行ったりもしていたぐらいの仲だ。わたしは人づきあいが嫌いではないけれど、特定の人と深く仲良くなることも少ない。友人にとってのわたしは恐らく二番手だったけれど、それでも頼まれたからにはしっかりと引き受ける程度には大切な友人だった。

 

結婚式の日、あまり記憶はないが、夜に電車に乗る前にハグをした気がする。

 

最近は、カラオケ酒場で「葛飾ラプソディー」を歌うことがおおい。同世代ならだいたいなんとなく伝わる曲のなかで、魂をなにかに売らなくてもいいからだ。この間は年下のお兄さんにあれもこれもと頼まれてET-KINGのサビを一緒に歌わされた。これは魂を売ることで成し遂げられるのだけど、やはりヒット曲は歌詞がどんなでも歌うと気持ちがよくて、むしろそういうところに「喜び」の本質があるのかもなとおもった。

2月

ちょっとした事故で怪我をして、家に引きこもっている。家にいる時間が長いとだんだんと心は沈んできて、ウーバーイーツで何を頼むかとか、どんな本を通販で買うかとかを(決して、読み始める保証も読み終わる保証もないまま)考えて過ごしている。

 

家にずっといると人とも会わない。コンビニまで普段なら往復5分のところを倍以上の時間かけていったり、病院まで4,50分くらいかけて松葉杖をついていったりする以外に外出する理由も気力もない。

そうなると寂しくなって友人たちに連絡を取る……のかと思えばそんなこともなく、最低限家族に頼り、あとは人と会わない暮らしを案外楽しんでいる。大河ドラマの録画を見たり、買ったまま読んでなかった本を読んだり……。

通勤の時間がまったく発生しないというのはいいことなんだけれども、ラジオを聴く「理由」がなくなる。歩いていて動画なんて見れないからラジオを聴く、というのがわたしの習慣だったけれども、通院で松葉杖をつく以外は歩くことなどほとんどないから、ラジオを聴く習慣が薄れつつある。そのことは残念だ。

 

詩的抒情の少ない生活の中で何を思っているのか。自分でも考えてみたけれど、結局よくわからない。生活に精一杯になると、普段おもしろいと思うもののおもしろさが目減りする感じがある。それに伴って、普段は興味がなかった大食い動画なんかに食い入るように見ている。自分の人間くささに呆れつつも、でもそれこそが真に人気らしいのでは?ということを思ったりした?

12月

そのひとはずるいひとだったけれど、いま思えばそれを口実にして私自身こそがずるいひとになっていたのだとおもう。

ゆっくりと、だが着実に老いてゆく。恐ろしいことのようでもあり、喜ばしいことのようでもある。時間軸のもたらす暴力性と、それに乗っかる堕落的快楽は排反しない。

いつかわたしは周囲の人間をすべて失い、虚空に向けて言葉を放擲するしかなくなるのではないか、という予感が、歳をとるごとに、少しずつ確信めいてくる。その時の自分のこころのうちを想像してみるが、濁流でも清流でもない、冷え冷えとした雪原でもない、ただただ風の凪いだ湖の景色が浮かんでくる。湖面は微動だに揺れることなく月の光を反射している。完璧で美しく、恐ろしい景。

曇天の冬空の下に、公営住宅の補強工事の空間がある。空も建物もグレーに薄曇っていて、ぼくはそれを美しいと思う。

砕けた言葉の断片を詩と呼びうるならば、砕けた生活の断片や砕けた思考の断片も詩たりうる。けれどもこの肉体自身はいかようにしても詩にはならない。質量と体積の逃れようのなさ。ことばに顕れる身体性というのは肉体そのものではなく、フィルタリングによって質量や体積を削ぎ落としたヴァーチャルなものでしかない。

2021年が終わるとこの世のたくさんの2021年のカレンダーが捨てられる。当たり前の事実が、すこしこわくて寂しい。

3月

目が回るほど疲れて、ビールでお弁当をぐいっと流し込んでねむる、というような暮らしを二週間ほどつづけて、すこし参った。わたしは疲れると、自分でその疲れを背負いこむというか、より疲れる方へ疲れる方へと頑張ってしまう。具体的に言えば残業ハイみたいな状態になって、「明日も5時間残業してやらあ」みたいなテンションになってしまうのだ。

最近はアニメをぼんやり観てみたり、ラジオやPodcastを聴いてみたりしながら過ごしている。昨年の自分と比べて、すこし文化的なものを受信するアンテナがましになった。昨年はずっと故障しっぱなしというか、頭にもやがかかりっぱなしのような状態だった。何を見てもおもしろくないと感じたり、なにを聴いてもこころが動かなかったり、本も全然読めなかったり。いまは少しずつ回復して楽しくなってきている。のだけれど、仕事も同じように忙しくなってきているので身動きできない。やっとわたしの精神に雪解けの春がきたというのに!

少し前にTwitchというゲーム配信に特化したアプリ(RTAの配信などによく使われているらしい)で、Dos MonosのひととMONO NO AWAREのひとが人生ゲームをやる配信をやっていて、同居人の勧めでそれをいっしょに見ていたのだけれど、「花束みたいな恋をした」のことを「花束みてぇな恋をした」と言っているくだりで、ふたりでゲラゲラ笑った。べらんめえ口調になるだけでどうして可笑しくなってしまうんだろう。それからというもの「花束みてぇな恋をよォ〜」みたいな、ジョジョ的なノリでわたしたちの会話の中でこのフレーズが使われるようになった。そういえばこないだ同居人が「あれ映画化するらしいよ、あの……『明け方みてぇな若者たち』。」と言ってきたのでこれもゲラゲラ笑った。確かにカツセマサヒコの『明け方の若者たち』と「花束みたいな恋をした」は現実のカルチャーから固有名詞が引用されているとか、想定している客層が近いとかの共通点があってダブるところがある。これを読んでいるひとたちは、そんなにゲラゲラ笑えるほど面白いことか? と思うと思うのだけれど、今のわたしの生活にとっては、むしろこれぐらいチープでシンプルで、だけれども個別性を持って自分の記憶の中に宿るエピソードこそが愛おしいのだ。

最近はSNSやブログから離れていた、といっても、このブログと紐づいているTwitterアカウントについての話だけれど。べつになにか心情の変化があったとかは、自分では認識していないんだけれど、無意識のうちになにかが変わったのかもしれない。単純に忙しかっただけとも考えられるけれど。最近Twitterを見ていると、わたしの人生とは関わりのないひとたちが淡くそこに存在するだけ、というような気持ちになってきて、それはもちろん、会って話したりできない、ということに起因しているのだとおもう。わたしは会ってあなたと話したかったのか。そんな理由だけでTwitterをやっているわけではないのだけれど、でもそういう気持ちがあるのはある。ひとと話すことが好きだ。わたしは、ひとと関わることによって傷ついたり落ち込んだりしながらも、ひとが喋るときのその仕草とか声のトーン、喋り方、そこにあなたが存在することのテクニック、みたいなものを感じているときに、その人が生きていること、翻っては自分が生きているということを実感する。

会えなくなったひとがたくさんいる。会えるひとより会えなくなったひとのほうが多いんじゃないか。一方で、とても久しぶりに会ったひとというのも最近いる。そのひととはほぼ10年振りだった。ひととひととの繋がりがグラフで書かれているなら、切れたり繋がったりが今この瞬間も絶え間なく行われていて、この複雑系を構成している。そういうシステムを認識することで、逆にひとつひとつの行動の個別性、一回性が(わたしにとっては)際立つ。会えなくなったひとと、もう一度会える可能性はどれぐらいだろうか。

心待ちにしていることがあると、もうすこし生き延びようと思える。ずっと、その連続で生きていたような気がする。アニメとかラジオとかを毎週チェックするようになると、つらさが少し和らぐ気がするのは、来週まで生き延びよう、の連続に心がフィットしてくるからなのかもしれない。

11月

発しようと思っていた言葉になる以前のものと、実際に発した言葉の間にある乖離に、自分自身で傷つきながら、それでもそれをなんとか近づけようとする営為の大切さを、わたしは知っているから、傷つきながら言葉を書いていくのだということを思う。

幻のような秋が終わり、もう冬だ。今年には紅葉がなかったように錯覚しているけれど、実際にはこれからが紅葉の季節だと思うと、紅葉は秋というよりももはや冬のものなんじゃないかと思えてくる。

紅葉の季節になると、当時の恋人と行ったあちこちを思い出す。南禅寺京都府立植物園で紅葉を見ているそのひとの背中をわたしは後ろからみていたのだとおもう。うつくしかった日々はいまも記憶のなかのどこかで、気づかないうちに再生されていて、そのバックグラウンド再生されている記憶が、急にわたしを情緒づかせるのだとおもう。

最近は仕事のためにいろいろ勉強している。昨日は、回路表を解読して電気回路図を書きだしたり、油圧部品のスペックを調べたりしていた。前の二段と比べてなんと情緒のない一文だろう、かなしくなる。仕事をしながらおもうのは、全体像を把握することと、個別の小さな部分を細かく検討していくことの両方が大切だから難しいということだ。こういうことを書くと、いきいきと仕事にやる気があるひとみたいな感じに見えてしまうのもなんだか悲しい。わたしはふつうにはたらいてふつうにお金がほしいだけだ。仕事はつらくないにこしたことはない。つらくならないように仕事がある程度できるようになりたいなとおもっている。

お笑いの動画を見たり、アニメを見たり、音楽を聴いたりして日々を過ごしている。昨日はブルーハーツを久しぶりに聴き直した。やはりいいバンドだなとおもう。ハイロウズも含めて、CDをしっかり集めたい。真島さんの歌声が好きだ。しわがれながらも、優しさを含んだ声。最後のアルバム『PAN』に収録されている「休日」はとくに好きな曲だ。「野原で野球してるこども こどもとぼくが入れ替わる」というフレーズとかにグッとくる。風景描写からグッと自分に引き付けて、自分がそのこどもと同じ体験をする(かつてしていた)という没入に切り替わる。シンプルなフレーズだけど、なかなか簡単にはこうは言えない奥深さがある。

お酒を控えて、ノンアルコールビールや白湯を飲む生活をしている。もちろん週末は飲むのだけれど。感染者は増えていっているけれど、東京のイベントに行くつもりだったから、悩んでいる。おそらくは行くのだろうけれど。

8月

たやすく眠ることのできない夜に、扇風機を浴びて夜の時間が進むのをぼんやりと感じ取っている。

わたしはわたしがこれまでの人生で好きになったひとびとを一度に集めてわたしの感情のためだけの同窓会がしたいなとおもう。

お盆、実家に帰るのが遅くなって非難された。祖父母はコロナを怖がってるから細心の注意を払っているのに、と。気持ちはわかったけど、それならそもそも帰ってこないでと言ってくれればいいのに。

すきなひとに言葉を届けるとき、同時に、この言葉は絶対に届いていないのだろうなという感覚がやってくる。あなたもわたしも他人だから、結局のところ、完全に一致することはない。当たり前なことだ。でも、だからこそ伝わる伝わらないに関わらなく、わたしは言葉を届けるのだとおもう。それはだれのためでもなくわたしのためにだ。祈りという言葉に言い換えることもできる。

髪が伸びて、明日の午前に切りに行くのに、夜更かしをしてしまっている。

自分の心にとって正しいこと、正しい選択をしつづけたいとおもうけれど、もしそれが大きな力によって阻まれることがあるならば、ということをたまに考える。きっと、そうなってしまってはどうしようもないのだろうけど。

夜はやはり好きじゃない。残りの酒を飲み干して、ねむるしかない。週が明けたらまた仕事がはじまる。自分がなくなってしまいそうで怖いと思う。

 

6月

もう夏ですねえ、と会った人になんとなく言ってしまう時期になってきた。髪も伸びてきたし切りに行きたいけどなかなか行けなくて、暑さがその鬱陶しさに拍車をかける。気分は浮いたり沈んだりを繰り返している。

自転車のライトが壊れたかもしれない。充電をしているときはライトをつけることができるが、充電ケーブルを外すとつかなくなる。バッテリーが死んだスマホみたい。残業して夜遅く帰るときにライトがないのは心もとない。夏至が近いから、19時くらいまでは大丈夫なのだろうけど、はやいところ対策を打たなくちゃなと思っている。

左目の視力がだいぶ落ちてきた気がする。左目をつぶる。右目の視界の左側にぼんやりと自分の鼻が映る。気持ち悪いなと思う。

最近、夜ご飯を食べるときにお酒を飲むのを控えて、その代わりに炭酸水を飲んでいる。お酒を飲んでいない夜は思考がクリアで、当たり前のことなんだけどうれしい。自分がどのように考えたり、どのようなことに心を動かしたりしていたのか、を、再発見できるかもしれない。

仕事に対する不安で押しつぶされそうになっている。わからないことが多すぎるのだけれど、日程的にそんなことも言っていられなくなってきている。既存の機構の成り立ちを理解しようとはしているのだけれど、そもそも機構学なんて学生時代にやってないから、素人でしかない。スペシャリストに聞くしかないのだろうか。そもそもスペシャリストが存在するのかも疑わしいのだけれど。

わたしがこれまでの人生で口にしてきた言葉をすべて思い返すことができたとしたら、それはどれほど幸福なことだろうと思う。ということを心の流れのままに書いてみて思ったのだけど、わたしは「思い出す」ということを人間の生活の中でもとても重要なことだと考えているらしい。それは、忘れてしまった時間や空間や言葉に対する喪失の感情を強く抱いているからなのかもしれない。すべてのことがやがては忘れ去られていくというのは抵抗しようのない運命なのだけれど、だからこそわたしは思い出すし、思い出してほしいとおもう。